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宮城県・奥松島で見た、被災地復興の現状

東日本大震災から5年が経ちましたね。

こんにちは、すずきです。

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2011年3月11日。震災の時、僕は大学3年生で、就職活動の真っただ中でした。

会社の採用説明会に出席をしようと、中央線で東京駅まで向かおうとしてた矢先に地震が襲いました。


14時46分、まさしく神田駅を中央線が出発しようとするところで揺れが発生。

最初は大した揺れではなかったものの、やたらと長く続く振動に違和感を覚える自分。

それはもちろん他の人も例外ではなく、電車も揺れが来ているため、発車ベルが鳴ってもドアは閉まらない。


そのうち段々と揺れが強くなっていき、「こりゃあマズイ」と思った僕は、脱線が怖くて電車を降り、ホームに出た。

それから程なくして、震度5強の大きな地震が東京を襲い、一旦、揺れは収まりました。


JR線のホームにはけたたましく警報が鳴り響いて、電車はもちろん全停止。

神田はホームから改札、周辺の道まで、おろおろする会社員で溢れていました。


僕は結局、神田から2駅先の御徒町の祖母の家まで歩き、そのまま一日を過ごしたのですが、御徒町まで歩く道中の道がまた凄かった。

車は大渋滞で全く進まず、人はまるで通勤ラッシュかのように、列をなして歩道を行進している。

道中、棚のものが落ちてグチャグチャになったお店を見たり、ショーウィンドーが割れてしまったお店を見たり…

一瞬で、東京は混乱を極めていました。


でも、当時面接を受けていた企業から、当たり前のように「2次面接通過おめでとうございます」なんてメールが来たりもしましたけどね。すげー会社だなおい。


その後も、原発事故に始まり、街全体を覆う大火事が起こったり、余震が続いたり、長野や静岡でも大地震が発生したり、液状化でアスファルトがグチャグチャになったり、ガスタンクが爆破炎上したり…

僕は就活中というのも相まって、本当に気が休まらず、不安で胃が痛くなる日々をしばらく過ごす事になりました。


僕は、そんな日々を過ごしていながらも、実は今まで被災地をこの目で見たことはありませんでした。

就活が終わったら、卒論に卒業旅行。仕事が始まったら、ひたすらそれに追われる…

そんな人生を歩んできた事が理由にはならないと思いますが、色々思うことはあっても、実際に被災地をこの目に入れたことがなかったのです。


ですが、今年になって、ようやく動き出しました。

僕は尾鷲市の地域おこし協力隊として、これから地域活性化の分野で仕事をしていく事になる…

それなのに、あの記録的な大災害の現状を実際に確かめないとは何事だ。と思ったわけです。


尾鷲も三陸地方と同じ、太平洋沿いの典型的なリアス式海岸の漁師町です。

そして、今後発生の確率が非常に高いとされている南海トラフ地震では、津波によって壊滅的な打撃を受けることが予想されています。

だから、東日本大震災は決して他人事ではありません。


そういう想いをもとに、ちょうど前の会社も退職して時間が出来た先月、観光も兼ねて、宮城へ旅行に行くことを決めました。

行先は松島(と秋保温泉)。松島と言っても、有名な景勝地・松島海岸ではなく、まだ被災の色濃い、ちょっとマニアックな奥松島地区に宿を取ることにしました。

東側の「宮戸島」が、奥松島と呼ばれるエリア



仙台から少し松島寄りに行った街・塩竈市でレンタカーを借り、そこから海沿いをつたって奥松島にアクセスします。

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奥松島への道中。気が狂いそうなほど鮮やかな夕景


道中はひどいもんでした。


まだまだ復興の最中で、片側一車線の道路では、法定速度以下で走る工事車両によりノロノロ運転ばかり。

辺りを見渡せば、海・荒野・山 という感じで、荒野はもちろん、津波で流されて何もなくなった宅地跡です。

ブルドーザーが荒野で作業を続ける中、ヒョロヒョロと数本荒野に立つ松の木が目立っていました。


道路もひどいもので、アスファルトはまだボコボコ。ハンドルを握る手も強張ります。

道中には工事で片側通行の区間もあり、道を通れるまで5分近くは待たされた事もありました。


そして、奥松島までもう一息、という所で到着したのが、旧・野蒜(のびる)駅でした。

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廃止になった駅舎跡。表にはファミマと地区センターがある


野蒜駅は元々、JR仙石線の主要駅の一つとして営業をしてきました。

しかし、太平洋に面した野蒜地区は、津波の被害が甚だしいエリア。今まで走ってきたボコボコの道よりも東、太平洋寄りの場所です。


震災の後、野蒜駅は、西隣の東名駅とともに、津波で大きな被害を受け、営業停止に。

その一年後、野蒜駅・東名駅は、仙石線の線路をより内陸の丘陵部分に付け替えるのと同時に、駅舎を移設して営業を再開することが決まったということでした。


旧駅舎は、災害の爪痕を伝えるためかそのまま残されています。

整備されているのか、駅舎はキレイですが、やはり線路周辺には草がボウボウと茂り、とても営業をしているようには思えません。


その旧駅舎の前のファミマで、これも生々しく被災の状況を感じ取れるものを発見しました。

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上の方に見えると思います。青い看板で、「東日本大震災」と書いてあるやつが。

僕(と、連れてった彼女)の影が写るように写真を撮っているので分かると思いますが、これ、看板にしてはめっちゃ上の方に付いてるんですよね。


色と絵柄から分かると思うのですが、この看板は「当時ここまで津波が来たよ」ってことを表しているのです。


正直、身震いがしました。だって、俺の背丈の3倍くらいあるじゃねーか。

併設の地区センターで、被災直後の廃墟になった野蒜地区の写真も見たのですが、確かに、こんな高さの津波が来たら鉄筋ビルだってボロボロになるわ…


ふとファミマの周辺を見渡してみると、本当に綺麗な夕景と、奥には松島ならではの、松がビッシリと生えた低い山々が連なります。

しかし、その山々、所々えぐれているんですよね…

津波の物凄い力強さを物語っているようでした。



そして、ファミマを出発して橋を渡ったら、野蒜海岸エリアを経て、宮戸島・奥松島へと入ります。

冒頭の写真で、翌日に撮った、野蒜海岸が写っている写真があると思うのですが、これを良く見てみると、海岸からその左の部分まで、ずーっと砂っぽいだけになっているんですよ。

実はここが、この辺りで最も被害の大きいエリアだそうで、車で走っていた時には、本当に荒野しかありませんでした。

周辺には木すらなく、工事中の盛土された荒野の中に道路が走っている、という感じ。アメリカの荒野を走っているような気さえする程でした。


そしてようやく辿りついた宿、汐さいの宿 ちどり館

小さくて綺麗な民宿なのですが、話を聞くと、実はここも一度、津波で全て流されてしまったそうです。

被災から数年経って、ようやく新しく建物も建てて、リニューアルし営業を再開したとのことでした。


その民宿の周辺は、いわゆる「民宿村」だそうで、かつてはたくさんの民宿が立ち並ぶ観光エリアだったそうです。

しかし、今は津波で全て流され、民宿も、商店も、ほとんど何もありません。

当然、観光客も大きく減ってしまったそうです。


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そんな状況の中で営業しているちどり館さんは、本当に強かで素晴らしい…

平日だったこともあり客は僕達だけでしたが、その分ありがたく泊まらせて頂きました。

ちなみに、ご飯は夕・朝とも食べきれないくらいに出まくって、しかも地元の牡蠣とか超美味かったです。

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奥松島で宿泊し、翌日は少し奥松島を観光した後、ザ・観光地な佇まいの松島海岸へ。

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同じ松島とは言っても、奥松島と違い、松島海岸は見事に復旧し、東北の代表的な観光地の顔を見せていました。

…と言っても、やはり以前から土産物屋の構成などは大きく変わったようですが。

しかし、再び元気な沿岸部の姿を見ることができ、ちょこちょこ観光しながら、安堵の心を持っていました。



今回、僕は奥松島に行って本当に良かった、と思っています。

被災地の現状は、まだまだ復興は進行中で、田舎の方などひどい箇所はまだいっぱいある。

でも、松島海岸や仙台のように、見事に復旧して賑わっている街並みも多くあります。


今、東日本大震災を思い返してみると、あれは本当に恐ろしかった。

東北各地の太平洋沿岸部がことごとく津波に飲まれて壊滅していく様は、日本のパラダイムシフトになったほど本当にショッキングでした。

連日連夜、ACのCM以外は被害状況を伝えるニュースしかないテレビは、絶望でしかなかった。

ガレキしか残っていない被災地の惨状を見るのは、本当に辛かった。


けど、今年はじめて被災地を見に行ったら、嘘のように復興が進んでいるエリアも多い。

あれだけのダメージを受けたのに。あれだけ日本人の防災やライフスタイルに対する価値観が変わったというのに。

以前と変わらないような姿で賑わっている街や施設が、これだけあるなんて…


もちろん、まだまだ復興は途中ですし、それはきちんと進んでいかなきゃならない。

原発事故だってまだ解決していないし、太平洋の魚は本当に安心して食べていいのか、僕自身まだ疑問を感じている(と言いつつ、尾鷲で魚食いまくってるけど)。


でも。ここまで復興を進められた日本は、本当に凄いと思う。

阪神淡路大震災の時もそうだったと聞くけど、大災害で何もなくなっても、強かに再生してきた。

何もかも焼失した戦後から、一気に成長して世界トップクラスの経済大国になった日本の姿が感じ取れた。



正直、復興が進んでいる状況を見て、僕は勇気と誇り、責任感を覚えました。

多少辛いことがあったって、いや、すごく辛いことがあったって、何度でも立ち上がって頑張る。


再度うまく立ち上がるには時間もかかるだろうし、それ自体大変で投げ出したくなるかもしれないけど、でもそれで良い。

常に前を見て、決して諦めることなく、牛歩だろうと何だろうと、決意をもってやり抜き大義を達成する。

その根性、達成するという気持ち、それを肌で感じることができました。


僕もまだまだやれる。


僕は小さい頃、家庭の問題とかも原因にあったのか、半引きこもりの無気力なダメ人間に育っていました。

高校は倍率割れの底辺高校で、卒業ギリギリまで欠席をしているような始末。


でも、そこから一念発起して受験勉強をして、そこそこ名の通った大学に合格することができた。

だから、僕もそんな雑草魂、逆境をぶち抜いた経験はあります。

最近、そんな気持ちを感じることが無くなっていて、闘争心というか、必死さというか、それを感じなくなってきている。

それはそれで幸せなのかも知れないけれど、僕的には何か違うなーと思っていました。


それもあって、今回は本当に、日本に勇気をもらえた気がしました。

大きな災害があろうと、悲劇があろうと何だろうと、それに負けずに大義を達成する。

ゆっくりでも、自分だけで進めずとも、不器用でも何でもいいから、とにかく諦めずに頑張る。

そんな気概を、心に植え付けることができたと思います。



改めて、今僕は尾鷲市の地域おこし協力隊として、過疎化著しい尾鷲市に定住者・移住者を増やすための活動に従事しています。

のどかで意外と便利でとても良い街なのですが、いかんせんかなりの田舎なので、人口減少には抗いようがありません。

でも、少しでも尾鷲を面白い街、話題性のある街にするべく、僕は業務にしっかりと励んでいこうと思います。

僕ありきでの移住者がドンドン増えていくよう、諦めない精神でチャレンジを続けます。


もしかしたら、僕の協力隊任期のうちに、尾鷲にも大地震・大津波が来るかもしれません。

そうなったら、母親の実家も、僕が借りている家も、まず間違いなく流されてしまいます。

実家には年老いた祖父母もいる為、万一の時は命が助かるかも分かりません。

僕だって死ぬ可能性は0じゃないし、助かっても、尾鷲のある東紀州地域は災害に弱く、孤立する可能性も高い。


でも、僕はそれを覚悟してまで、尾鷲で働いている。

やりたい地域活性化の仕事を、自分の縁のある大好きな街で精一杯やることに決めたので。


もし震災が来て、尾鷲が津波に飲まれて何もなくなったら、僕は率先して救援活動に勤しみます。

一人でも多くの人を安心させて、復興のためにまた頑張れるよう、一緒に歩んで行けるようにしたい。


「東北の復興は奇跡だ」とか言う人もいますが、僕は奇跡だなんてとんでもないと思っています。

日本人の諦めない心と、諸外国の援助が招いた、単純なる努力の成果なのです。

だから、「奇跡」って言葉とは違って、復興には再現性があるんですよ。

戦後だって、阪神地域だって、その他の地域もそう。ほぼ必ず、被災してもしっかり復興してますからね。



尾鷲は今、市をあげて津波対策・防災計画の見直しに注力をしています。

街を歩くと、沿岸には防潮堤があったり、市街地にはそこかしこに標高が分かる目印や、緊急避難場所の案内が見られるようになりました。


尾鷲も小さな小さな田舎町ですが、やる事はしっかりやって、未来をじっくり見据えてまちづくりに取り組んでいます。

僕もその一助として、諦めず頑張って行こうと思います。



じゃあの。